行為を終えた後、光はゆっくりと脱いだ服を着替えた。その間、真一郎はどうしていいのか分からず、必要以上に煙草をふかした。光は始終笑顔を絶やさず、気持ち良かったわと何度も呟いた。
「‥‥この為に、私をここに呼んだのですか?」
「そうよ。嫌だったかしら? 大丈夫よ、お父さまやお母さまには絶対に言わないわ」
「何故、私を?」
そう真一郎が言うと、光は真一郎のくわえている煙草を奪うと、自分の口にくわえた。そして、煙を真一郎に吹き付けた。
「だって、あなたしかいないじゃない。私の傍にいる男性って」
その言葉を聞いて、真一郎は固まった様子で光を見つめる。そんな理由で抱かれたのか、この少女は。そんなくだらない理由で。真一郎は信じられなかった。光はそういう人間ではないと思っていた。本当に愛する男性が現れるまで、自分の貞操は守ると思っていた。勝手な思い込みに過ぎなかったが、それでも今までの光の態度を見ているとそれも納得出来ていた。
一体、彼女の中で何があったというのだろうか。これが本当の彼女なのだろうか。それとも、これがあの少女に言われた事なのだろうか。どれにしろ、真一郎には今の光の言葉にどうしても納得できなかった。
会話が途切れてしまうと、光はスッと立ち上がり、もと来た道を戻り始めた。それに真一郎が続く。
再び静かな時間が訪れる。光はもう真一郎に興味が無いかのように、真一郎の手を繋ぐ事も無く、子猫のように戯れつく事も無く、ただ屋敷に戻る為に歩いている。その後ろ姿を見て、真一郎の疑問はますます募っていく。本当にどうしてしまったのだろうか、この子は。何か、何かが勝手に歩き始めている。それはあの子が来た時からだった。あの子は何を光に吹き込んだのだろう。あの二人の間に何があったのだろう。不安、疑問、猜疑心が溢れてくる。そしてそれを、光は一切癒そうとはしてくれなかった。
しばらくして、森が終わりを告げ、見慣れた庭先が顔を覗かせる。光はそこで一度立ち止まり、真一郎の方を向いた。
「絶対に言わないでね。この事」
真一郎はどこか脅迫じみたその言葉に、ただ頷く事しか出来なかった。光はありがとう、と小さく言うと小走りで屋敷の中へと入っていった。その様子を、二階の窓から望が見下ろしていた。望はずっとそこにいた。二人が森に入り、そして出てくるまでずっと。ずっと‥‥。
屋敷は次第にその静けさを取り戻していっている。それはまだ、この屋敷に誰も住んでいなかった頃の、虚無にも似た静けさに。食堂では光だけが一人で夕食を取っている。皆、忙しいという理由でそれぞれの部屋で食事をしていた。しかし、それは逃げている、と光は感じていた。皆、私から逃げている。私だけがあの子と確かな繋がりを持ち、そして他の人は交流を交わす事さえ満足に出来ない。彼女があの四人にとってどんな存在なのかはまだよく分からないが、あの子の事を知っている自分が恐ろしい、という事だけははっきりと意識していた。
食事はビーフストロガノフだった。無言で白い湯気の出る食事を突く光。本当はあの子と食事がしたかった。別に一人でここで食事をする事は淋しくない。それはよくあった事だったし、たまにはそういう日の方がいいと思う日もあった。
しかし、それは食事をする相手が彼らだったからだ。自分だけを除者にしようとしているような、そんな態度。それが気にくわなかった。それを口にした事も無かったし、よく考えてみればつい最近までそんな事を考えた事も無かったような気がする。しかし、今ははっきりと彼らと食事をするのが嫌になっていた。
「早く、来てよ」
そう呟く。するとコンコンという音が響く。食堂の扉だった。光は顔をそちらの方に向け、どうぞと言う。幾分間があった後、扉が開き舞夜が入ってくる。光の顔がパッと明るくなり、舞夜に駆け寄る。強く抱き締めると、舞夜もそれに答えるように強く光を抱いた。光は舞夜を自分の隣の椅子に促した。舞夜は行儀良く椅子に腰掛けると、ビーフストロガノフを眺めた。一人分よりも少し多い。光は自分の席に座ると、あなたの分ももらっておいたの、と声を弾ませながら言う。舞夜は嬉しそうに微笑むと、光の頬にキスをした。光は同級生の男の子にでもキスをされたように、顔を真っ赤にして恥ずかしがり、舞夜をチラリと見ると満足気な微笑みを作った。
優香はアルコール度数の高い琥珀色のブランデーを呷りながら、煙草をふかしていた。それを何も言わず見つめる少年。少年は時たま優香の手からグラスを奪うと、一口ずつブランデーを喉の奥に流し込んだ。
「‥‥お酒が飲めるのね」
「姉から教わりました。嫌な事は、大体の事ならば酒で紛れると」
「何か嫌な事でもあったの?」
「貴女が、お酒を飲んで煙草を吸っている事です」
少年がそう言うと、優香は天井を見上げて乾いた笑いを漏らした。昇に抱かれた時に何度も見上げたペルシャ絨毯のように模様の天井が、酔いのせいだろうか迫ってきているかのように見えた。
昇の部屋のソファに腰掛ける優香と少年。本来ならば、他の三人の許可が無くては地下室の人間は出してはいけなかった。しかし、鍵の件があってから真一郎とは勿論、望や恵美ともその関係がギクシャクしたものになっていた。一人であの少女に光の姿を投影させる望。二人で何を考えているのかいまいち把握出来ない恵美と真一郎。誰も信用出来なかった。
勿論、自分は失態など犯していない。ちゃんと鍵はかけた。その後も、鍵はしっかりと持っていた。何故鍵が開き、あの少女が外に出る事が出来たのか。分からない。どうしても分からない。誰かが開けたと考えても、どうやって開けたのか分からない。
泡のように湧いてくる憂欝をかき消すかのように、優香は煙草を口から吐き出した。
「ごめんなさいね。楽しい事をしようと思っていたんだけど、今日はそんな気分じゃないの」
「いいです。麻薬もセックスも好きではありませんから」
大人びた事を言う少年の頭を、優香は見ずに撫でた。少年は少しだけ嬉しそうに微笑むが、それを優香は見ていなかった。優香の視界には琥珀色の天井しか映っていなかった。「何だかとっても腹が立つわ。分かる? この気分」
あまりにも抽象的で曖昧な事を言ってしまったな、と優香は自分で馬鹿らしく思う。今日ここに来たばかりの子に分かるはずがない。第一、自分もこの苛立ちの原因がよく分かっていなかった。
「変わらないと思っていたものが変わってしまう。それに苛立ちを覚えている。違いますか? 例えば、突然の引っ越しの時に感じる悲しみ」
優香の口から煙草の煙が止まる。出会った時からどこか子供とは思えない感じがしていたが、今の台詞は並の大人でも言えない事だった。霧でぼやけていた映像を一瞬でライトを付けてしまったように、今の優香には思えた。
まるでお経を唱えるかのように、少年の言葉は続く。
「他人が幸福になって、そして自分が不幸になっていくのが恐ろしいんですね? でも、それは皆そうです。別に貴女だけに限った事じゃない。皆、自分の身が一番大切だし、自分に不利な他人の幸福など望みたくはない。貴女はとても苦労してここまで来た。だから、余計他人の幸福に不安を感じてしまう」
優香は視線を天井から、ゆっくりと少年に向けた。少年は透き通るような黒い瞳で優香を見つめている。ブランデーをテーブルの上に置き、煙草を揉み消した優香は少年の肩を強く掴んだ。
「どうすればいいの?」
少年は一度静かに瞬きをして、それから口を開いた。
「僕には分かりません。でも、幸福になろうとしている他人さえいなければ、貴女はきっとまだここにいられると思います」
二階の望の部屋は重苦しい空気に包まれていた。望はワイングラス片手に、窓の外をじっと見つめている。光と真一郎があの森から入っていくのを見てから、望は殆どそこから動かなかった。望の胸の底で例えようのない憎悪が静かに燃えていた。そんな望の背中を無言のまま見つめる真一郎がいた。
「用があるって聞いたけど‥‥何の用で?」
「まだ仕事は残ってるのか?」
望は真一郎の顔を見ずにそう云った。太陽の姿が無くなり、暗黒へと帰ろうとしている森を眺めながら云った。真一郎はやはりこいつはあの女の兄だ、と思った。いつまでも話し相手に背中を向けている。
「ええっ、夕食の後片付けがありますが」
「じゃあ、それが終わったらでいいから、ちょっと付き合ってくれないか? 死体置場に行きたいんだ」
それを聞いて、真一郎の顔が曇る。
「今まで一度も行った事なんて無かったじゃないですか。一体、どんな用事があるんですか?」
「後で話すよ。とにかく、今は早くその用事とやらを済ましてきてくれ。あと、僕の分のビーフストロガノフはいらないから、用意しなくてもいいよ。ふふっ、食器を洗う手間が省けてラッキーだろう?」
その時、望は振り向いて真一郎を見た。その顔を見て、真一郎は思わず息を呑み込んだ。望の目は真っ赤に腫れ上がっていた。それなのに、泣いているようには見えず、瞳が持つ輝きははっきりと分かる。そして、その瞳は強烈な輝きを放っていた。そして、口は不気味に微笑んでいる。暗い夜空を背景に、芳醇な香りの漂うワイングラスを持つ瞳の赤い男。まさにドラキュラという形容が当てはまる顔だった。
「片付けが終わったら声をかけるから。どこにも行かないでくれよ」
そう言うと、望はまた顔を窓に向けた。一瞬だけ見た望の顔。確かにあれは尋常な顔ではなかった。まだ昨日の舞夜の件を引きずっているのだろうか。もしくは更に新しい悩みを抱えてしまったのだろうか。真一郎には分からなかった。何故、そんな顔で窓を見ている?
窓?
その瞬間、真一郎の脳裏に嫌なイメージが広がった。もしかして、この男は自分と光が森の中でした事を見ていたのではないだろうか。どんな女の子を買おうとも、恵美を抱こうとも、光への想いを消さずにいた望。その望が自分に見せた、悪魔のような顔。まるであの時から一度も瞬きをしていないかのような、そんな真っ赤な瞳。
真一郎は恐くなり、数歩後退りした。きっと、約束通り来れば、きっと自分は殺されてしまうだろう。間違いない。この男ならやる。真一郎は体中から血の気が引いていくのが分かった。そして、緊張の糸が切れる寸前に、扉の方を向いて部屋から出ようとした。
その時だった。何か冷たい物が真一郎の背中に触れた。音も無く、ひんやりとした感触が後頭部辺りにする。真一郎が後ろに手を当ててみると、そこには一本のナイフが突きささっていた。再び振り向いて望を見る。望は兎の目をこちらに向けて笑っていた。乱暴にのびた髪の毛が、時折深紅の瞳を隠す。
望は手に持っていた数本のナイフの一本を真一郎に投げ付けた。ナイフは暗闇に近い部屋では殆ど見えず、望の手から離れたと思ったら、もう真一郎の手の甲に突き立てられていた。真一郎は逃げようと足を動かそうとした。しかし、何故か足が動かず、その場に崩れ落ちた。
望はゆっくりと真一郎の元に近づくと、後頭部に突き刺さっているナイフを引き抜き、真一郎を仰向けに寝かせた。そして、真一郎の上に馬乗りになった。引き抜かれたナイフには本来は真っ赤であろう血が、今は濃い黒に見えた。ポタポタとその黒い雫が真一郎の胸元に落ちる。
「お前‥‥光を犯したな。俺が何よりも大事にしている物を壊したな」
「あ‥‥ああ‥‥」
「その“ああ”はただ苦しいから出た言葉なのか? それとも、“私がやりました”っていう意味なのか? どっちなんだ?」
真一郎は声が出なかった。そして、自分でも今言った“ああ”がどちらなのか分からなかった。望は真一郎の手の甲に刺さっているナイフと手に持つナイフをカチカチと鳴らしながら、顔を真一郎に近付ける。そして、罪は重いな、と言うと真一郎の首にナイフを当てがり、ゆっくりと沈めていった。
真一郎は自分の首に冷たいナイフが段々と差し込まれていく感覚を感じながらも、懸命に手に刺さっているナイフを抜こうとした。しかし、既に手には感覚が無く、今、手がどこにあるのかもはっきりと理解出来なかった。その間もナイフはどんどんと真一郎の首に沈んでゆく。皮膚が千切れる微かな音と、時たま骨を貫くゴキッとした音だけが無慈悲に響く。息が出来なくなる。やがて喉の奥で液体が溢れている感じがして、とても苦しくなる。だが、何故か痛くはなかった。望は凍り付いた赤い瞳で、ゆっくりと裂かれてゆく真一郎の首を見つめている。
望が窓際に立っていたのは偶然だった。舞夜の件があってから、望は一歩の自分の部屋から出なかった。部屋の中で一人、煙草を吸ったりウィスキーを飲んだりして、気を紛らわそうとした。しかし、何をやってもあの舞夜の顔が頭から離れなかった。その時だった。窓の外から騒がしい声が聞こえた。窓の方に近付いてみると、そこには真一郎と光の姿があった。楽しそうに手を繋ぐ二人。望はそれを見て、胸が焼け付くようなむかつきを覚えた。自分は消えない不安に悩まされているのに、楽しそうに光と遊ぶ真一郎に腹が立った。そして、望は部屋から出ると二人の後を追った。真一郎が楽しそうにしているのを見ているのは嫌だったが、それよりも自分の光と一緒に一体何をしているのか気になった。 そして木漏れ日漂う森の中で見た光景を、望は二度と忘れる事は無いと思った。
愛しい妹の処女を刺し貫いた男。この男を生かしておくつもりはなかった。骨を砕き、首を裂いて、滴れる生き血を飲み干したいと願った。
そして、今その男が首を半分切られて喘いでいる。光の愛液を飲み込んだ血を、ダラダラと流している。最高だ、と望は思った。今まで何人の人間を殺してきたか分からない。その中でも、この男は最高だ。燃え滾る怨念を、唯一消す事の出来るこの男の血。これほど人を殺していて心地好いと思った事は無い。望は光に対する哀れみも、舞夜に対する憎しみも、何もかも忘れて、この男の死にゆく様を見続けた。
傷口から零れ落ちる血を、手で掬う。生暖かい感触が手の中で広がる。望はそれを口にあてがい、喉を鳴らして飲み干す。まだ一度も知らない、光の愛液の味がした。
「いい味だ」
望は暗い天井を眺めながら呟く。それを、虚ろな瞳の真一郎が見る。
「‥‥」
ごめん、恵美。
薄れゆく意識の中で、真一郎はそう思った。お前だけ望んでいればよかったんだ。金など手にせず、支配する喜びなど知らなければよかった。光や望などに知り合わなければよかった。四畳半の小さな部屋で、お前と二人で暮らして、子供でも作って生きていけばよかった。でも、もう何もかも遅い。もう俺はお前と話せない。もうお前を抱けない。もう、愛する事も出来ない。もう、一緒にどこかに行く事も出来ない。
ごめんな‥‥。
「‥‥」
真一郎の首からナイフの先端を顔を見せ、その先端はやがて部屋の絨毯に突き刺さった。赤い絨毯に、赤い血が流れてゆく。まるで薔薇の花が咲く様子を早送りで見ているように、赤い血は広がってゆく。
望は真一郎の首がもう殆ど繋がっていないのを見ると、ゆっくりと立ち上がった。もう真一郎は息をしていなかった。望は机の上に腰かけると、煙草をくわえた。火をつけると、真一郎の死体がオレンジ色に照らしだされた。物言わなくなった真一郎の顔は、ちょうど絨毯に咲いた血の薔薇の真ん中に位置している。煙草の煙を肺一杯に吸い込みながら、望はその死体を見て乾いた笑い声を上げた。